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京都「真如堂」にある国宝の数々と真如堂の魅力

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真如堂は「真正極楽寺」の呼び名で、京都府左京区にあります。戒算によって984年頃に一条天皇の生母である東三条院詮子の離宮にご本尊の阿弥陀如来を安置したのがきっかけだといわれており、真如堂の本堂は992年に創建されました。

ところが応仁の乱などの戦によって堂塔が焼失し、その後1693年になってから現在の場所に再建されたのです。ご本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」と呼ばれることもあり、慈覚大師が「修行者を守護して下さい」と祈ると頷きませんでしたが、「衆生、特に女性をお救い下さい」と祈ると頷いたといわれています。紅葉シーズンには多くの人がもみじ狩りに訪れます。

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真如寺の宝物

真如堂縁起

こちらは全3巻からなっているもので、後柏原天皇の勅筆といわれています。真如堂の記録また応仁の乱、遣隋使の様子など歴史上のことが書かれていることから資料としてもかなり重要なものです。特に応仁の乱の際にはこちらが東側の陣となっていましたので様々なものが破壊されてしまいましたが、そのことについてもかなり詳しく記載されています。

7月25日には毎年虫払会が行われていますが、その時にこの写本を見ることができます。写本は元禄6年頃(1693年)に前年の焼失や再建による危機感がきっかけとなり、再建のための勧進の目的もあって製作されています。ただこの写本に関しては絵や詩書を誰が書いたのかということが謎のままとなっていますが、原本のものをかなり忠実に再現してあります。

舎利塔

こちらは後醍醐天皇によって寄進されたもので、舎利つまり釈尊の遺骨を四天王が囲み、護っています。「御綸旨」という天皇からの命令を書かれた手紙には「仏舎利を真如堂の霊宝として朝夕きちんとお勤めしなさい」という内容が書かれています。

油壺

こちらは15世紀から16世紀頃に作られたといわれている壺で、中国の福建省製です。正式には「釉貼花花卉鳳凰六耳壺」といいます。足利義政がこいらに永代燈明の油入れとして寄進しました。その当時には人々の間で「汲めども尽きぬ真如堂の油壺」という言葉が生まれていたほど盛んだったとされています。

寒山拾得

狩野山雪によって描かれたこの絵は畳2畳分ほどあり、中国の唐の時代に実際に存在していたといわれている「寒山・拾得」を描いたものです。彼らは天台山国の清寺に出入りして僧の残した食物を竹筒に蓄えて食べ、寺内での叫び声・罵声、唱歌、廊下を悠々漫歩するなど僧侶を困惑させていました。

また杖で追われると掌を叩きながら大笑いして去っていったとされています。彼らはもちろん僧ではありませんでしたし、一般人ともまた違い、まるで狂貧子のようだとさえ言われていましたが、仏教の哲理や詩作などには非常に才能がありました。この絵の彼らの表情は人間の表と裏の感情を表現しているといわれています。ちなみに、この絵を描いた狩野山雪は狩野山楽の門人で娘婿となって狩野姓を名乗るようになりました。

涅槃図

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「涅槃」というのは欲望の炎が吹き消された状態のことですが、当時は釈迦が35才で到達した境地を「涅槃」、釈迦が亡くなって肉体も滅した時を「大般涅槃」と呼んでいました。やがて釈迦の死を「涅槃」」と表現するようになり、その時の様子を描いた絵がこの「涅槃図」というわけです。1709年に製作されたこの絵は三井家の女性達が寄進したもので、縦が6.2m、幅が4.5mあります。

僧の厭求や海北友賢らによって描かれました。江戸時代の浄土門の高僧だった厭求は生涯定住をしない人で、全国行脚をして過ごしていました。一方で友賢は江戸期の画派である海松派の門人でした。この絵は沙羅の木の元に北に頭を向け、右脇を下にした釈迦が横たわり、周囲に菩薩・天部や弟子たちが囲んでいるというものです。中央上には2月15日の満月、右上の雲には釈迦の生母・摩耶夫人が息子の死を知り、急いでやってきた様子が描かれています。

観経曼陀羅

こちらは「観無量壽経」に書かれた極楽浄土の世界などを絵解き風に忠実に表現したものです。天平の時代に製作された同じものが奈良県の当麻寺にもあります。そのため、このような同じものは「当麻曼陀羅」と呼ばれています。絵は真ん中に説法している阿弥陀如来、両脇や下のほうには浄土の世界をイメージする方法である十六観相やビンバサラ王夫妻とアジャセの物語、九つに分かれているといわれる極楽の様子などが描かれています。

このビンバサラ王とはインドのマガダ国の王、その妻がイダイケ夫人、そしてアジャセはその息子で太子でした。この絵は江戸中期頃にあたる明和4年(1767年)に本堂の大きさとあわせて製作されており、そのサイズは縦が5m、幅が4.4mもある巨大なものとなっています。こちらも三井家から寄進されましたが、傷みが激しくなってきていたため、近年修復作業が行われました。


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