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方広寺にまつわる鐘の逸話と観光の見どころ

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方広寺は京都市東山区大和大路通と正面通の交わる場所にあるお寺で、豊臣秀吉を祀った豊国神社の北側にひっそりと佇んでいます。

方広寺は文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって創建されました。当寺の別名は「大仏殿」で、本尊は盧舎那仏です。大仏や廬舎那仏と言えば奈良にある東大寺の大仏を思い浮かべるかもしれません。実は、豊臣秀吉によって創建された当時の方広寺には奈良の東大寺の大仏を凌ぐ日本一大きな大仏(6丈3尺:約19m)が安置されており、境内には巨大な大仏殿が建てられていました。

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広大だった方広寺

境内の敷地も現在よりも遥かに広大でした。現存する豊国神社から国立博物館西側にある巨大な石が積まれた石垣は創建当時の大仏殿の石垣です。発掘調査によればこの大仏殿の大きさは東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明しています。現在の七条通の向かい側には三十三間堂がありますが、その南にある太閤塀や、秀頼が築造した南大門に至る広大なエリアが境内に含まれていました。

実際に三十三間堂の前の道(赤十字病院の前)から国立博物館・豊国神社に向かって歩いてみれば、大仏殿があった当時の大きさがわかります。現在は東寺に移築されている南大門(重文)は、元々は大仏殿の西大門として建築されたものです。ちなみに東寺の南大門は九条通から見ることができます。方広寺を訪問する際に、大仏殿の石垣や太閤塀・南大門も見ておくと良いでしょう。

秀吉と大仏

巨大な大仏と大仏殿の建築には刀狩で没収した武器を再利用した釘などが用いられ、造営期間短縮のために大仏は銅ではなく木製でした。秀吉は大仏殿への参拝者の便宜を図るために、五条大橋を当時の六条坊門通(現在の場所)に架け替えさせることまでしました。秀吉が自らの力を内外に示すために造営した奈良東大寺の大仏を凌ぐ木製の大仏は、完成の翌年の文禄5年(1596年)に発生した「慶長伏見地震」で倒壊してしまいました。

このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられています。大仏殿は無事だったので、秀吉は倒壊した大仏に代わって善光寺如来(阿弥陀三尊)を移座して本尊に迎えることを計画しました。

そして慶長2年(1597年)7月に善光寺如来が京都に到着し、大仏殿に遷座されました。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれ、多くの参拝客が訪れるようになりました。ところが秀吉は翌年の慶長3年病に臥してしまいます。“これは善光寺如来の祟りではないか”ということで善光寺如来は善光寺へ戻されることになりましたが、秀吉は翌8月18日に亡くなってしまいます。

大仏再建への動きと「方広寺鐘銘事件」

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秀吉が亡くなった後に、豊臣秀頼が慶長4年(1599年)に銅製の大仏を再建しようとしました。ところが慶長7年、大仏の材料として流し込んだ銅が漏れだして火災が発生し、造営中の大仏と巨大な大仏殿が跡形もなく灰となってしまいました。秀頼は慶長13年から大仏と大仏殿の再建を開始させて、4年後の慶長17年には大仏に金箔を貼るところまで完成しました。慶長19年には梵鐘(ぼんしょう)も完成し、徳川家康の承認を得てから開眼供養の日を待つこととなりました。ところが、この梵鐘が有名な「方広寺鐘銘事件」の発端となり、豊臣家が滅亡させられるきっかけとなってしまったのです。

梵鐘に彫られている銘文の意味

同年8月に徳川家康はこの梵鐘に彫られている銘文の意味について、五山(東福寺・南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺)の僧や林羅山に解読させました。林羅山は銘文中に「国家安康」の一文を見つけ、家康の「家」と「康」の間に「安」で分けられていることが家康呪詛の意図があると断じました。

一方、五山の僧の見解は、名分に身分の高い人物の名前「家康」の名前を含むことは過失であるとしたものの、呪詛意図までは認められないというものでした。ちなみに梵鐘銘文を選定した文英清韓は、家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として含めたと弁明しています。

「国家安康」の銘文

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家康はこの件について執拗に追及を続けました。仮に祝意として意図的に「家康」の諱を織り込んだとしても、このような銘文を家康本人に断りなく勝手に組んで刻んだ行為は犯諱であるとし、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であると断罪しました。一般的に「国家安康」の銘文は家康が豊臣家を攻める口実を得るために強引にこじつけを行ったのではないか言われていますが、当時の慣習ではそれなりに問題のある行為ではありました。

この家康に対する“冒涜”事件がきっかけとなって慶長19年と翌20年に大坂の陣が起こり、豊臣家が滅亡することになってしまいました。この梵鐘は現存していて、今も見ることができます。問題となった「国家安康」の部分に白い印が付けられています。

まとめ

豊臣家の滅亡後も方広寺の大仏や梵鐘はそのまま残されることになりましたが、寛文2年(1662年)の地震で大破してしまいます。大破した大仏の銅は寛永通宝の原料とされました。

大仏は5年後の寛文7年に木造で再興されましたが、寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失してしまい、以後再建されることはありませんでした。


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